NO.118
城の立地と現状

忍城が築かれた場所は、利根川と荒川にはさまれた低湿地で、広大な沼地となっており、そこに残る島や自然堤防を巧みに利用し、守り易く攻めにくい難攻不落の名城であったと伝えられています。
豊臣秀吉公の関東平定に際し、豊臣方の石田三成公による水攻めを受けたストーリーは、和田竜氏による小説『のぼうの城』で描かれ、映画や漫画でも注目されたお城となりました。
築城と廃城
忍城は文明十年(1478年)頃、当地域を支配していた成田顕泰(アキヤス)公により築城。成田家は隣接する北条家や上杉家、等といった勢力の影響を受けながら最終的には北条家の支配圏に入りました。
天下統一を目指す豊臣秀吉公が、成田氏の主家である北条家に対する攻勢を強める中、天正十八年(1590年)、秀吉公の指示により石田三成公率いる豊臣秀吉軍が忍城へ侵攻し、忍城の戦いが勃発。三成公は忍城を長大な堤防で囲んだ上で水攻めにするも、忍城に立て籠もった成田長親公は堤防を破壊して反撃するなど抗戦。近隣の北条方の城が次々と落城する中で最後まで必死の防衛戦を展開するも、主家・北条家の小田原城が開城するに至り、忍城も開城。
北条方の城で最後まで守り抜かれた忍城は難攻不落の名城と謳われ、この城は水に浮く「忍の浮き城(ウキシロ)」とも称されたそうです。
成田氏が城を明け渡した後、豊臣方として参陣していた徳川家康公の四男・松平忠吉公が忍城に入城。以後江戸時代を通じて、忍城には徳川の譜代や親藩の大名が入城しました。
徳川将軍家三代目の徳川家光時代となる寛永十六年(1639年)に幕府の老中であった阿部忠秋公が城主になると、城と城下町の整備に着手。忠秋公の孫・阿部正武(マサタケ)公の代となった元禄十五年(1702年)には忍城御三階櫓が完成し、城門土塀の修築なども完了。忍藩の中心となる城として整備されました。

文政六年(1823年)伊勢国桑名藩から奥平松平家九代の松平忠堯(タダタカ)公が移封され、以降は奥平松平家が城主に。慶応三年(1867年)、藩主・松平忠誠(タダザネ)公のとき明治維新を迎えました。(ちなみに、戊辰戦争の際に忍藩は新政府側として参戦)
その後、廃藩置県と同時に廃城した忍城は明治六年(1873年)に取り壊され、現在は土塁の一部が残るのみとなりました。
参考情報(外部サイト):行田市公式ホームページ(忍城跡)
忍城は、城下町行田の発展の基礎となった城で、整備された城下町では周辺地域で栽培されていた綿を原料に足袋づくりが始まり、江戸時代中期以降足袋の産地として知られるようになって行きます。
現存する遺構
本丸西側を囲む土塁。旧状を良く残す南に二の丸、西に土塁曲輪と橋で結ばれていたそうです。

現在ある「忍城御三階櫓」は、明治時代に取り壊されたものを昭和六十三年(1988年)に再建したもの。内部は郷土博物館の展示室の一部となっていて、最上階からは市内を一望できます。

城内にあった櫓に使用された忍城櫓の石垣。


元禄十五年(1702年)に三階櫓一棟、二階櫓二棟が建てられましたが、明治六年(1873年)の廃城により解体されました。
時鐘は、文政六年(1823年)に松平氏が桑名から忍へ移封された際に、あわせて忍城へ移されてきました。


鐘楼は、城内二の丸の東隅にありましたが、明治十年(1877年)に取り崩され、当時の進修館小学校校庭に再建され、時を報じていました。昭和二十八年(1953年)東照宮に移転の後に、平成四年(1992年)、鐘楼から鐘を取り外され、鐘は現在行田市郷土博物館に展示されています。
参考情報(外部サイト):行田市公式ホームページ(忍城の時鐘)
かつての藩校「進修館」の表門であったと伝えられている門。行田市城西の旧芳川家表門を移築・復元したものです。

一間一戸、高麗門、切妻造、桟瓦葺で、当初は赤彩された赤門であった可能性も指摘されています。
また、解体時に発見された冠木柄表面の墨書銘から、天保三年(1832年)に御奉行後藤五八氏、大工町世話方大工宋兵衛氏等によって建立されたことが判明しています。
最後に
関東七名城の一つである忍城(下野唐沢山・宇都宮・太田金山・佐竹の太田山・厩橋・川越・忍)は、、その忍城の中郭が御本丸であったものの天守閣はなく、諏訪曲輪・二の丸・井戸曲輪に二重・三重に囲まれていたようです。


平成四年(1992年)までに本丸跡・諏訪曲輪跡が公園として整備され、堀や土塁を再現。昭和六十三年(1988年)に城内に御三階櫓と行田郷土博物館を建築。

平成五年(1993年)に忍通りが第七回彩の国さいたま景観賞、平成七年(1995年)度には忍城址地区が都市景観大賞、平成二十三年(2011年)度には忍城御三階櫓が第六回浮き城のまち景観賞をそれぞれ受賞。
平成二十九年(2017年)には、忍城跡が行田市の日本遺産ストーリー「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」の構成資産に認定され、また、忍城が続日本100名城に選定されています。
街並みも含めて数々の受賞歴があり、天下統一間近の豊臣秀吉軍による攻城戦でも落城しなかった名城・忍城。お時間のある方は行ってみてはいかがでしょうか。


れきぽ! 
