国府台の立地と現状
現在は里見公園として市民の憩いの場所になっている国府台城跡。国府台は標高20~25mの下総台地の西のはしで、旧利根川水系の太日川(現在の江戸川)に平行して南に張り出した大きな舌状の丘陵であり、里見公園のなかに土塁状の城郭遺構が現存。
市川市の最高標高地点も公園内にあり、浮世絵師の歌川広重氏が「名所江戸百景」でこの里見公園からの風景を描いたともいわれています。
江戸川を挟んで東京スカイツリーも見える場所にあります。



国府台城の始まりは、いつ?
国府台城築城には諸説あり、有力な説の一つ目は康正(コウショウ)元年(1455年)に発生した享徳の乱により、上杉氏と古河公方の足利氏が対立し、康正二年(1456年)、上杉側についた千葉実胤(サネタネ)公と千葉自胤(ヨリタネ)公の兄弟が、足利成氏(シゲウジ)公に攻められた際に立て籠もった城が「市川城(市河城)」、という記録があり、ここで出てくる「市川城」が国府台城のもとになった、という説。(この戦いの結果は、千葉兄弟の敗北)
もう一つの有力説は、文明十年(1478年)に、当時、隣国の武蔵国を支配していた扇谷上杉氏の家宰(当主に次ぐ地位)である太田道灌公が、千葉自胤公を援護すべく、下総国臼井城を本拠とした千葉孝胤(タカタネ)公と争う事になり、下総国の拠点として仮に構えた陣城が下総国の国府台。
この陣城を本格的に築城したのが国府台城のはじまり、とする説。(この際の築城者は、太田道灌公ではなく太田道灌公の弟(一説には甥)の太田資忠公とする説もあるそうです)
正式な説は不明ですが、歴史は新たな発見で変わる事が多々ありますので、今後の研究を待ちましょう。
二度にわたる国府台合戦の古戦場


天文時代と永禄時代の二度にわたり、小田原の戦国大名北条氏と安房の戦国大名里見氏により行われた合戦、いわゆる国府台合戦の舞台となったのが、国府台城。
第一次国府台合戦は、天文七年(1538年)、古河公方足利晴氏公の影響下にあった北条氏綱公と、小弓公方足利義明公・里見義堯公が戦ったもの。
国府台城に入った小弓公方足利家は、国府台城の北側から侵攻してくる北条側を迎撃すべく進軍。里見氏は北条側の挟撃の可能性を考え、小弓公方足利氏とは別行動に。
結果は、小弓公方足利方は、当主の足利義明公が戦死するなど軍が壊滅し、滅亡。
なお、小弓公方側ながら別行動をしていた里見氏は、足利義明公討死の報を受け、北条氏と戦う前に即座に離脱。ここで戦力を温存できた里見氏は、小弓公方足利氏の滅亡で支配者が不在となった国府台をはじめとする、下総国への支配圏を拡大する事に成功。
これに対して永禄七年(1564)、代が変わり着々と東国に勢力を拡大していた北条氏康公と、北条氏の下総国侵出に抵抗する里見義堯公とその子である里見義弘公が国府台で激突したのが、一般的に言われている第二次国府台合戦。(前年の永禄六年にも合戦があったとする説もあるそうです)
下総国を始めとして関東圏を支配下にするべく、二万の兵で下総国へ侵攻してきた北条方。房総勢の里見方は兵八千を動員して、交通の要衝である国府台で迎撃の構え。永禄七年の1月4日に里見義弘公は国府台に着陣します。
1月8日、北条方は里見方の寝込みを急襲し、里見方は大混乱。初陣となった、里見義弘公の甥にあたる里見弘次(ヒロツグ)公や、安房国の有力豪族で里見氏と友好関係にあった正木内膳公も戦死。
里見方は参陣した兵八千のうち五千名を失うという大敗を喫し、本拠の安房国に敗走。国府台は北条氏の支配下に属する事となり、以後、国府台城は北条氏の手により規模が拡大されていった模様。
第二次国府台合戦によって多数戦死者を出した里見方の慰霊の為に、文政十二年(1829年)に「里見諸士群亡塚」(下の写真の左側)・「里見諸将霊墓」(同・中央)が建てられ、また年代は不祥ですが「里見広次公廟」(同・右側)が後に建てられました。これらの慰霊碑が、「里見広次並びに里見軍将士亡霊の碑」として現在も残っています。

「夜泣き石」伝説
第二次国府台合戦で戦死した里見弘次(広次?)公の末娘で12~13歳だった姫様は、父の霊を弔うために安房国から国府台の戦場にたどり着きましたが、戦場跡の凄惨な情景を目にして、恐怖と悲しみに打ちひしがれ、傍らにあったこの石にもたれて泣き続けた末に、息絶えてしまう事に。
それから毎夜のこと、この石から悲しい泣き声が聞こえるようになった事から、地元の方たちはこの石を「夜泣き石」と呼ぶようになったそうです。

その後、一人の武士が通りかかり、この哀れな姫様の供養をしてからは、泣き声が聞こえなくなったという伝説が残っています。
ただ、残っている国府台合戦の記録では、里見弘次公が戦死した永禄七年(1564)の合戦の際は未だ15歳。この記録からすると、里見弘次公の末娘とされる夜泣き石伝説の姫様との年齢の整合性がとれません。
市川市教育委員会の方が現地に設置した案内板によると、里見公園内にある里見弘次公の慰霊碑は、元々は明戸古墳の石棺近くに夜泣き石と共にあった事から、夜泣き石伝説の姫様の話は里見弘次公にまつわる伝説として語り伝えられたのではないか、との事です。
れきぽ! 
