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【神奈川】小机城(小机城址市民の森)

小机城址碑

NO.125

小机城の立地と現状

小机城(コヅクエジョウ)は、鶴見川に突き出た丘陵上の要害にあり、背後の神奈川湊と鶴見川及び鎌倉街道の交差する交通の要衝にあったお城。横浜市北部一帯を含む小机領(横浜市北部・川崎市一帯辺り)を支配する拠点として存在しており、現在は小机城址市民の森として利用されています。

築城と廃城

15世紀半ばから約140年間にわたる戦国時代、関東では鎌倉公方足利氏、公方の補佐役であった関東管領・山内上杉氏や扇谷上杉氏、小田原の後北条氏などの諸勢力が激しく争っており、永享の乱(1438年~39年)の頃は、小机城の一帯地域は関東管領・山内上杉氏の勢力下。同時期に山内上杉氏によって築城されたとされていますが、正確な築城年代は不明。

室町時代の文明八年(1476年)、山内上杉家の家宰であった長尾景信公の死去後、子の長尾景春公は家宰職に就けなかった事に対して、主家である山内上杉家に反乱を起こしたのが「長尾景春の乱」。

長尾景信公時代の現状維持を望んでその子である長尾景春公に味方した武将も多く、小机城の矢野兵庫助公もその一人。

矢野兵庫助公は、北方の亀之甲山(現在の新羽町亀ノ甲橋付近)に帯陣した山内上杉方である扇谷上杉家の太田道灌公率いる軍と交戦するも、文明十年(1478年)攻め落とされ、小机城は落城。最終的に長尾景春の乱は和睦のうちに終結したものの、事実上山内上杉家によって鎮圧され、小机城はこの時廃城に。

再興、そして二度目の廃城

廃城から約四十年後、相模国に侵攻を続けていた後北条氏が小机地域を勢力下に収めると、北条氏綱公(後北条氏2代目)は、江戸・玉縄・榎下などの諸城を結ぶ位置にある小机城の立地に目を付け、大永四年(1524年)に廃城となっていた小机城を再興。一族の北条三郎公(北条氏康公(後北条氏3代目)のいとこ)の城としました。城代として北条家の重臣である笠原越前守信為公が入城し、この際に小机衆が組織される事に。

小机城城主は、その後も北条一族が代々城主として統治しており、北条三郎公の後は、北条氏堯公(北条氏康公の弟)・北条氏信公(北条氏康公のいとこで、北条三郎公の弟)・北条氏光公(北条氏政公(後北条氏4代目)の弟)が勤め、城代は笠原氏一族が代々歴任。

主家・後北条氏に対する豊臣秀吉公の小田原城攻めでは小机城での戦乱にかかわる記録は未発見との事ながら、戦国時代末期となる天正十六年(1588年)には、周辺の村々へ戦闘員となる男性の人数を登録させる「人改め令」が発令され、小机城に兵力が集められた記録が残っているそうです。(城郷小机地区センター2階にある、展示コーナー資料より)

天正十八年(1590年)、豊臣秀吉公によって後北条氏の本拠となる小田原城が攻め落とされ、後北条氏は滅亡。主家滅亡により小机城も開城された後、当地域が徳川家の所領となると小机城は再び廃城となり、城としての歴史を閉じることになりました。

本丸はどこに?小机城の遺構

登城口にある竹林がある坂を登ると、深い空堀が出現。

さらに進むと、今まで登ってきた道が眼下に。上からの攻撃にさらされて、攻城側は大変そうです。

上からの攻撃を凌いで進むと現れるのが、復元された城門。門をくぐると本丸があったとされる本丸広場に到着。遺構はなく広場として市民の方に利用されているようですが、入り口付近には城址の石碑があります。

土塁跡や櫓台、井楼跡を抜けると二の丸広場。

どちらが本丸でどちらが二の丸だったのか、正確にわかる資料は見つかっていないそうですので、今後の研究次第では本丸と二の丸の位置が変わる可能性もあるようです。

西側にも元々小机城域となっている場所がありますが、今は第三京浜道路により寸断されていますので、一度下まで降りて道路下を潜り抜けてから再度登る必要があります。

登りきったところには、富士仙元大(センゲンノダイ)菩薩の石碑がある小高い場所があり、富士山信仰の信仰対象となっていたようです。ただ、石碑の場所にたどり着くまでは足元がかなり狭く、滑り落ちたら大変です。天候が良い時に見に行く事をお薦めします。

春には小机城址まつり、秋には竹灯籠まつりが開催されており、今なお地元の方に愛されている小机城(小机城址市民の森)。駅からも道がわかりやすく行きやすいので、ぜひ行ってみてはいかがでしょうか。

参考情報(外部サイト):港北観光協会(ウォーキングマップ第一弾)

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