

枡形城の立地と現状
多摩丘陵の緑に囲まれた小高い山、枡形山。約7アール(一辺約700m・約210坪)のほぼ正方形の平地を山頂とし、四角い形が桝に似ていることから枡形山と呼ばれており、山の四方は削り取られたような斜面となっていました。現在は生田緑地として自然が溢れる場所となっており、設置されている枡形山展望台からは周辺を一望できます。

築城の歴史と、稲毛三郎重成公
多摩丘陵には西から小沢城、桝形城、作延城(サクノベジョウ)、井田城、加瀬城などの多くの山城が鎌倉の防衛拠点として築城され、枡形山には1195年頃、稲毛三郎重成公が枡形城を築城したといわれています。また、隣接した飯室山には鎌倉時代初期(1190年から1199年)頃、同じく稲毛三郎重成公により構築された桝形城の出城も作られました。


枡形城を築城したとされる稲毛三郎重成(?-1205年)公は、元々、武蔵国の豪族だった小山田有重(アリシゲ)公の子で、小山田家から分家した秩父氏の一族。源頼朝公の正室である北条政子君の妹君を正室(妻)に迎えており、源頼朝公とは義理の兄弟の間柄。
平安時代、現在の川崎市中部あたりは「稲毛」と呼ばれており、稲毛荘(現在の中原区・高津区・宮前区・多摩区・東京都稲城市にかけての地域)という荘園がありました。稲毛三郎重成公は、この荘園を中心に川崎市北部から中部を支配。
稲毛三郎重成公は、源頼朝公の上洛の際は先駆けとして源頼朝公の為に尽力した有力な御家人でしたが、源頼朝公の亡き後に執権として実権を握った北条氏によって、他の源氏や源氏の重臣たちと同様、悲劇の最期をとげたと伝えられています。
参考情報(外部サイト):多摩区観光協会・多摩区見どころガイド
ちなみに、視聴された方も多いと思いますが、2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場しています。
扇谷上杉連合軍の集結地点。後に北条家の支配圏に
次に枡形城が歴史に登場するのは築城から約300年後の永正元年(1504年)。扇谷上杉氏と山内上杉氏の抗争が激化する中、扇谷上杉方に味方した駿河国の今川氏親公の客将であった伊勢宗瑞(後の、北条早雲)公が、武蔵国立河原(現在の東京都立川区)に陣する上杉顕定公・足利政氏公の山内上杉連合軍を討伐する為進軍してきた際に枡形に布陣。


枡形城で伊勢宗瑞公・今川氏親公・上杉朝良公が合流した扇谷上杉連合軍は、山内上杉連合軍と立河原で交戦(立河原の戦い)し、扇谷上杉連合軍が勝利をおさめました。(ただ、立河原の戦い後に伊勢(北条)・今川両家が引き揚げ扇谷上杉朝良公のみとなったところを山内上杉方が攻撃し、結果としては扇谷上杉朝良公が降伏)
その後、後北条氏の支配圏に入ってからは、多摩川と多摩丘陵の立地を生かして北条家の防衛拠点として使われており、永禄十二年(1569年)には、甲斐国の武田信玄公が相模国小田原の北条家に対して侵攻してきた際、土地の豪族である横山式部少輔弘成公は北条方として枡形城を改修して防備を固めたとされています。
桝形城は多摩丘陵と多摩川を防備に取り込んだ要所として、江戸時代の一国一城制度によって廃城となるまで戦場の拠点として使われました。
参考情報(外部サイト):川崎市教育委員会・枡形城跡
縄文時代の遺構と現在の構造物
お城の遺構は見られませんが、縄文時代の狩りに使われた落とし穴の遺跡が長者穴横穴墓群として発掘されています。

平成七年(1995年)、山頂には新しく枡形山展望台が建てられています。晴れた日には東京タワーや東京スカイツリーを一望できるだけでなく、2月と11月の年2回、太陽が沈む瞬間に「ダイヤモンド富士(富士山の山頂と太陽が重なり、ダイヤモンドが光り輝くように見える現象)」を観測するチャンスがあるそうです。


緑あふれる生田緑地を感じながら周囲を一望できて眺望も楽しめる枡形城址。


枡形山展望台のある生田緑地では、春にはサクラ、初夏にはハナショウブ、秋には紅葉等の四季折々の自然を感じることも出来ます。生田緑地の近くには、岡本太郎美術館や藤子・F・不二雄ミュージアムなどもあります。一度に色々楽しめる枡形城にぜひ一度行ってみてはいかがでしょうか。
ポストカード
枡形山展望台のポストカード。生田緑地東口ビジターセンターで売っています。

名称:枡形城(枡形展望台・生田緑地)
住所:神奈川県川崎市多摩区枡形6-4740ほか(生田緑地内)
交通(枡形展望台まで):小田急線向ヶ丘遊園駅から、約1.2km(徒歩約18分)
築城年:1195年頃(鎌倉時代)
築城者:稲毛三郎重成公
主な城主:稲毛三郎重成公、横山式部少輔弘成公
お城現況:(城郭遺構なし)
管理人訪問日・2025年2月
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