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品川台場の立地と現状
ペリーで知られる黒船来襲にそなえて江戸幕府が品川沖に築いた砲台場の跡地が、現在は「お台場」の名で知られる品川台場。江戸時代も現在も、江戸(東京)の中心部に船で乗り付けられる場所として、大変重要な場所となっています。現在は大正十五年(1926年)に「品川台場」として国の史跡に指定された第三・第六台場だけが残されています。

外国船を迎え撃つ、大砲の砲台
長いこと「鎖国」状態が維持されていた江戸時代後期、日本近海への外国船来航事件が頻発し、天保八年(1837年)のモリソン号事件の翌年には、海防の為に台場を設置しようとする計画がすでに江戸幕府の内部でも出ていたものの、この時点では財政難の為、実行されず。
嘉永六年(1853年)6月、アメリカ合衆国のペリー艦隊が浦賀沖に来航。開国要求を突き付けられた江戸幕府は、時の征夷大将軍(第12代)・徳川家慶公が病床に伏せていた為、回答を一年後にする事とし、ペリーは退去。(ちなみに、ペリー艦隊が浦賀沖を去って数日後に徳川家慶公は死去)
早急に対策を立てる必要に迫られた江戸幕府は、西洋砲術に明るく海防知識もある幕臣・江川太郎左衛門英龍(担庵)公による、南品川猟師町(品川洲崎)から深川洲崎にかけての海上に11基の台場を築造し外国船を台場で迎撃する、という江戸湾の海防強化策を実施。
翌年のペリー再来航前に防衛線を完成させたい江戸幕府は、同年8月より急ぎ品川台場の造営工事を開始。通常の埋め立てとは異なり人工島を築いて台場とする工事は困難を極めたものの、第一・第二・第三台場は翌年の嘉永七年(1854年)7月に、第五・第六台場と途中で加えられた陸続きの御殿山下台場は同年12月に竣工。(第四・第七台場は築造に着手したものの、工事半ばで中止。第八台場以降は未着手)
築造の際の総築造経費は、現代の貨幣価値換算で約700億円ともいわれる75万両という膨大なものとなり、土木労働を課せられた土取人夫などは、第一・第二・第三台場築造時で5000人にも及ぶ大規模なものに。
ただ、結果として江戸幕府はペリー艦隊の再来航に対して武力を使う事はなく、要求通り日米和親条約を締結し、開国する事に。すでに完成していた6基の御台場は、徳川将軍家に近い親藩・譜代とそれに準ずる家格を持つ大名によって、慶応四年(1868年)の幕府崩壊直前まで江戸湾防備の拠点として利用されたものの、戦場になる事はなく明治時代を迎える事に。
明治以降の品川台場
完成していた御台場は、一括して明治六年(1873年)に海軍省の管轄となり、明治八年(1875年)に海軍省から陸軍省に移管。その後、外国勢力に対する迎撃拠点として利用する事がなくなった御台場は、第三台場と第六台場を残し、その他4基は埋め立て・撤去される事に。大正四年(1915年)、東京市に払い下げられ、同十三年には東京府知事によって史跡の仮指定を受けた後、同十五年に国指定史跡に。

現在は、第六台場は立ち入り禁止となっているものの、第三台場は昭和三年東京市(都)によって整備され、都立台場公園(お台場海浜公園)として開放されています。
参考情報(外部サイト):東京都公式ホームページ(港湾局)
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