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【東京】滝山城(都立滝山公園)

NO.123

滝山城の立地と現状

滝山城は、北を多摩川、南を谷地川に挟まれるように東西およそ900mに及び、平山城としては東日本最大級の広さを誇るまでとなりました。加住丘陵に築城されており、都立滝山自然公園(開園・昭和61年6月1日・面積262,555平米)の一部です。

標高160mの公園の北には田園風景や多摩川の景観を望むことができます。北側の急峻な断崖や、南側の複雑に入り組んだ地形を利用し、巧みな土木技術によって築かれた滝山城は、国の史跡に指定されているほか、「続日本100名城」にも選定されています。

築城と歴史と、北条氏照公

大永元年(1521年)頃に多摩一帯を治めていた武蔵守護代・大石定重公により築城されたと伝えられていますが、天文十五年(1546年)の川越の戦いの勝利で武蔵の国人領主を従えた北条氏康公(後北条氏第三代)が、三男の北条氏照公を大石氏の婿養子として家督と城を相続させ、北関東への進攻拠点及び甲斐の武田氏に備える砦としての役割を担うようになりました。

北条氏照公は、これまで武蔵守護代の系譜を引く大石定久公の養子として滝山城に入ったとされていましたが、近年の研究では、氏照公は幼名を藤菊丸と称し、浄福寺城(市内下恩方町)を拠点に由比領を支配していた大石道俊公(定久公と同一の可能性あり)の子、大石綱周公の養子となったと考えられているそうです。

永禄十二年(1569年)10月、甲斐の武田信玄公が小田原城攻略の途中、その道筋にあった滝山城を包囲。拝島大日堂の森(昭島市)に陣取った武田勢は周辺の村々を焼き払い、滝山城を裸城したと伝えられています。信玄公が率いる2万の軍勢からの猛攻により二の丸まで攻め込まれましたが、このとき氏照公は、古甲州道沿いの城下「宿三口(シュクミクチ)」へわずか2千の北条勢の兵を繰り出し必死の迎撃戦を行ない、最終的に守り抜いたといわれています。

その後、天正十年(1582年)頃から八王子城(市内元八王子町)の築城工事が始められ、氏照公が天正十五年(1587年)頃までに八王子城(市内元八王子町)へと移るまで、氏照公の居城となっていました。

本丸跡までの登城道と遺構

「滝山城址下」バス停でバスから降りると、わかりやすく目印があります。

大手口と思われる天野坂からの堀底道は、城兵が効果的に攻撃ができるように工夫されており、小宮曲輪と三の丸の間には枡形虎口(出入口)が設けられていた模様。攻めのぼる敵側にとっては大変な脅威にさらされる場所で、侵入するのが難しかったと思われます。

三の丸は、滝山城の南側を守る台状の構造で、三方を空堀(水を入れない堀)で囲まれています。城があった当時は堀はもっと深かったと考えられますが、現在でも堀底から三の丸の台上までは15mほどもあり、堅牢な守りであったことが想像できます。

三の丸を抜けると「小宮曲輪」に到達。北条氏照公の家臣の中に西多摩地域出身の家臣である小宮氏がいる為、その小宮氏の名前を冠したと思われる曲輪。

小宮曲輪の内部は土塁(土盛り)でいくつかの屋敷に区切られていたと考えられており、小宮曲輪と三の丸との間には枡形虎口があったようですが、現在は車道により消滅。

堀を掘る際に、一部を土のままに残し通路として使う場所が土橋と呼んでおり、この場所の土橋はコの字型の土橋となっています。現在は道が整備されていますので登りやすいですが、当時はもっと狭く、敵方の侵攻に対して4回も体の向きを変えて進ませる事で敵の直進を防ぎ、頻繁に側面攻撃ができるように工夫されていたそうです。

コの字型となっている土橋を突破すると現れるのが、「千畳敷」と呼ばれている滝山城跡の中で最も広い平場。一辺が約60mの正方形に近い形をしており、東側には「二の丸」を守る兵馬が控えたと考えられる「角馬出(カクウマダシ)」があります。

「二の丸」は、敵兵を入れさせない堅い守りとなっていましたが、「千畳敷」は城下の民が年貢を納めたり、陳情に来る役場的な施設があったと考えられています。

虎口の前方に設けた空間を馬出と呼び、この場所は方形に作られていることから「角馬出」と呼ばれています。馬出があることによって守備する城兵の出撃を容易にしており、二の丸の三ケ所の出入口には馬出がそれぞれに設けられています。

中の丸の南側は二方向から攻め寄せられ敵が合流できる場所だった為、木橋の前面を守る防御設備が必要であり、土塁の残り方から考えて、櫓門があったのではないかと推定されています。

中の丸は、東西約70m、南北約100mの広さがあり、最重要の政庁施設があったと考えられています。守りも非常に堅く、東に9mの深い空堀、北には70mの高さの断崖、南は15mの深さの空堀と、三つの馬出しを持つ「二の丸」を擁しており、本丸に比べて規模も大きいことから、北条氏照公が大石氏から城を譲り受けた後に大規模な改修で完成させたもので、本丸よりも後の時代に建てられたと言われています。

中の丸に現在ある瓦屋根の建物は、昭和30年代に建てられた「国民宿舎滝山荘」の一部で、戦国時代の滝山城のものではないそうです。ちなみに、滝山荘は平成13年に廃止されたそうですが、現在は地域で活用しているほか、イベント時の滝山城跡の情報発信の場などとして活用されているそうです。「中の丸」の山腹には腰曲輪と呼ばれる平場が多摩川に向かって数多く設けられている。このことから、北側の多摩川方面に対して警戒していたと考えられる。

附近には河越道の渡河地点である「平の渡し(タイラノワタシ)」があります。元々この重要な地点をおさえるために滝山城は構築されたと考えられています。

中の丸から引橋を渡ると、本丸に入る枡形虎口があります。虎口は、防御と攻撃の両方の機能を備えたもので中世末において発達したものですが、滝山城の虎口は周囲を土塁で方形に囲った枡形虎口と呼ばれるもので、北条流の築城の特徴の一つと言われています。

以前行われた調査の結果では、現状の地表から深さ約1.2mのところに、30~40cmの扁平な川原石を敷き詰めた通路が発見されました。その幅は引橋側で5.4m、右に直角に曲がると約3.0m、さらに左に曲がると約2.0mとだんだん狭くなっていたそうです。これは、大勢の敵の侵入を防ぐ為の工夫と思われています。

引橋側には、南側と西側にL型状に側溝がつき、その先は一部暗渠となって土塁の中につながっており、土塁の断面からは、赤土(ローム)と黒土を交互に突き固めた版築(ハンチク)も確認されました。石畳の面から測ると、土塁の高さは約4.7mにもなるそうです。

引橋を渡ると、ようやく本丸に到着。滝山城の最奥にあり、城主が住んだ場所と考えられています。上下に段になっており、下段は土塁で囲まれ、内壁に丸石を積んだ井戸もあります。「中の丸」との間には、「大堀切」と呼ばれる空堀と、有事には外すことのできる「引橋」、さらに敵を横向きにさせて攻撃する「枡形虎口」があり、非常に堅い守りになっています。

中の丸に敵が押し寄せてきたら本丸へ半分程度引き込むことができたと思われる木橋引橋。本丸を守る人工的に掘られた「大堀切」の上に架けられており、大堀切は現在見られる深さよりも、もっと深かったことが試掘によって確認されているそうです。なお、当時の木橋はもう少し下に架けられていたと言われています。

滝山城は北条氏康の三男である北条氏照公が大改修したとされますが、本丸は築城時の大石時代の姿を残すと言われます。

搦手口方面に位置している滝集落は本丸北西側にあり、ここに枡形虎口を築くことで滝集落からの侵入に対して防衛攻撃ができるように工夫されています。先端部分には馬出も備え、縦横の堀と共に強力な防御態勢を整えていたと思われています。

古くからのハイキングコースとして親しまれており、付近一帯はソメイヨシノやヤマザクラ約5000本が春を彩り、サクラの名所としても知られ、季節ごとにヤマユリ等の様々な野草なども見られます。

参考情報(外部サイト):八王子市公式ホームページ

戦国時代中期に建てられた滝山城は、昭和二十六年(1951年)に国の史跡として指定されました。川沿いの絶壁を利用した典型的な山城で、今も本丸、二の丸、千畳敷、空堀などの貴重な遺構があります。

滝山城下には、「横山」「八日市」「八幡」という三つの宿があり、城下で開かれた市とともに、八王子城下、八王子宿(現在の中心市街地周辺)へと引き継がれています、八王子の歴史の基となった滝山城に一度来てみてはいかがでしょうか。

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