城の立地と現状
臼井城跡は、印旛沼に注ぐ手繰川と鹿島川に挟まれた下総台地北端にあり、北側は印旛沼に面していました。下総国の水陸交通の要所となる当地域に築城された臼井城は、現在臼井城址公園として整備され、城郭の位置からは今でも印旛沼を見ることができます。

二度にわたる合戦と、臼井城の歴史
臼井城は、臼井氏中興の祖といわれる臼井興胤(オキタネ)公によって城の基礎が築かれたとされており、15世紀中頃までに臼井氏の居城として築かれたと考えられています。
下総国の交通の要所に築城された臼井城は、戦国時代に二度の大きな合戦の舞台となりました。
一度目は、古河公方足利氏と関東管領上杉氏の対立により享徳の乱が勃発した事に端を発し、当地域を支配圏においていた千葉氏一族が分裂した事による合戦。
文明十年(1478年)十二月、武蔵千葉氏・千葉自胤(ヨリタネ)公の支援をした関東管領上杉側の太田道灌公が、古河公方側についた佐倉千葉氏・千葉孝胤(ノリタネ)公を境根原(現在の千葉県松戸市小金)の戦いで撃破。敗走した孝胤勢は、一族の臼井持胤公・俊胤公の守る臼井城に籠城。
翌年の文明十一年(1479年)正月、道灌公の弟(甥という説もあり)・太田図書助資忠公と武蔵千葉氏・千葉自胤公の軍勢が臼井城を包囲したものの、佐倉千葉氏・臼井氏は7か月もの間、籠城戦を展開。
臼井城の防備があまりに堅固なため上杉連合軍が一旦引揚げようとした際、佐倉千葉氏・臼井氏の軍勢が臼井城を出て追撃戦を開始し、太田資忠公・武蔵千葉氏の上杉連合軍と城外で激突。最終的に上杉連合軍が佐倉千葉氏・臼井氏の城兵側を返り討ちにし、臼井城は落城。ただ、この戦いにより上杉連合軍も太田資忠公が討死を遂げるなど、激しい戦いとなりました。

享徳の乱の後、16世紀中頃には、千葉氏の重臣であった原氏が臼井氏を追い出し、当地域を勢力下に。原氏は、元々千葉氏から分家した一族で、千葉氏自体が安房国の里見氏側についていた事もあり、原氏も里見氏側の勢力として当地域を支配。原氏は、臼井城の周辺に臼井田宿内砦などの支城を築城するなど城の防備を強化し、臼井城は次第に大規模な城に変貌を遂げていきました。
天文七年(1538年)に里見義堯公が房総地域侵出を目論む北条氏綱公に敗北(第一次国府台合戦)した際、原氏は宗家の千葉氏とともに里見氏側から北条氏側へ立場を変更。
関東地方での勢力を拡大し続ける北条氏に支配権を奪われた勢力の中に関東管領を務めていた上杉憲政公がおり、憲政公は永禄四年(1561年)に、当時越後国春日山城主であった長尾景虎公に関東管領の職を譲り、関東の勢力奪還を依頼。
長尾景虎公は関東管領とその名跡をうけて、長尾姓から上杉姓へ変更。名前も景虎から謙信と改め、以降は上杉謙信として関東への参陣を開始。
上越国境を越え関東に出陣する事数十回に及んだ上杉謙信公は、永禄九年(1566年)春に、下総国小金を経て同年三月臼井城下に着到。
守勢の臼井城主である原胤定公・胤貞公は、佐倉城主だった下総千葉氏の千葉介胤富(チバノスケタネトミ)公と北条氏に応援を要請し、籠城戦の構え。一方の上杉謙信公も、下総国の支配圏を奪還しようとする里見家へ支援を要請した事で、臼井城守勢側の原・千葉・北条連合軍と攻勢側の上杉・里見連合軍の戦いに発展したのが、臼井城二度目の大きな合戦。
近隣に謙信一夜城などの陣城を築いて攻勢を強める上杉・里見連合軍によって臼井城は実城(本丸)を残すのみ、となり落城寸前に。しかし、原胤貞公の奮闘や、原氏の軍師を務めた白井浄三公の知謀、原氏の支援に駆け付けた北条家・松田康郷公の必死の防衛戦が展開され、最終的には上杉・里見連合軍は臼井城を攻め落とす前に撤退。臼井城守勢側の、原・千葉・北条連合軍の守り勝ちとなりました。
この結果は、当時無敗とも言われた上杉謙信公の評判に影を落とし、当時関東にいた諸勢力にも影響を与えたと言われています。
その後、天正十八年(1590年)に豊臣秀吉公による小田原の役により小田原の北条氏が滅亡すると、北条氏の影響下にあった原氏も北条氏と命運をともにし、衰退。
徳川家康公の関東入封に伴い、家康公の家臣であった酒井家次公が臼井城に入城するも、家次公が上野国(群馬県)高崎に移ると近隣の佐倉城の整備が進んだこともあり、慶長九年(1604年)に臼井城は廃城。臼井城は歴史の舞台から消える事になりました。




現在見られる遺構
土橋
土橋は、空堀によって区切られたⅠ郭の坂虎口(出入口)とⅡ郭を結ぶ通路の役目を果たしていました。
土橋の幅を狭くすることで、一度に多勢の敵が渡れなくしていました。さらに、曲がった坂をつけて敵の進む速度を低下させ、北にあるⅠ郭の土塁上から側面攻撃を受けやすくなるように工夫されています。
現在は、盛土によって覆い、保存されています。


太田図書助資忠公の墓
関東管領方の太田資忠公が討死を遂げた地であり、現在の臼井城址公園を出てすぐのところに太田図書の墓があります。

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